一水会によせて
「伝統の”勇気と決断”を」 田中穣(美術評論家)
秋の一水会展が、ことしは第五十五回目に当たる。日本のいまの政治が、さながら明治維新のような変わり方をしはじめているのと同じに、世紀の半ば以上を経た一水会もいまや変革を迫られている。去年の十二月に会のカナメ(要)にも等しい存在の高田誠さんを失い、つづいて高田さんの秘蔵っ子というより一水会の希望の星でもあった小松崎邦雄を亡くした。ほかにも幹部会員の死に遇い、一水会はこれまでにない深刻な不幸に見舞われたといってよいのである。
こうしたとき、秋の一水会展の恒例の図録に、私になにか言葉を寄せてほしい、という依頼である。五十回展に合わせて、私は『一水会五十年史』(中央公論美術出版・昭和六十三年刊)を書き下したことがある。で、私はこの際、会の内外に向けて、いうなら”搬を飛ばす”思いをこめて依頼にこたえることにした。
故人となった高田さんは、実質的には、一水会の戦後の中興の英主であった。この高田さんに頼まれて、私は三年がかりで『一水会五十年史』を一人で書き上げたのである。一水会というと、おとなしい写実画家の集まりで、作風も現代では毒にも薬にもならぬ写生画をモットーとする洋画団体だ、とする世評に対して、その”五十年史”で私は、ひとこと物を申したわけであった。平安時代にそれまでの奈良朝を通じて流行した唐絵(中国画)から分離独立したやまと絵(日本人の絵・日本画)は、当時としては極めて勇気と決断のいる前衛的な試みであった。そのように、第二次大戦後世界的に流行した安易な抽象画と一線を画し、日本人の描く油絵(世評のいう堅実な一水会調写生画)に徹した、戦後の生き残りの一水会創立会員たちの”勇気と決断”が、どんなに新時代を画する(すなわち画期的な)ものであったか、を私は書いた。醒めた意識でそれが出来たのも、一水会の創立会員たちが、明治四十年(一九〇七)以来の文展洋画とあえて手を切って発足した、大正三年(一九一四)当時の日本洋画壇の最前衛・二科会の創立会員であった事実をも、私は強調した。古そうに見えて実は新しい一水会の体質を歴然と証明する、一例に挙げたのであった。(なおよくその間の詳しい事情を知りたい方は、前記『一水会五十年史』を参照されたい)
この月覚の上に立ち、高田誠さんは、平成元年(一九八九年)九月の一水会第五十一回展を機に、いつか安易に会員のふくれあがっていた会の組織を少薮精鋭にしぽる、一大改革をした。高田さんの一世一代の決意の上で断行された歴史的なこの大改革のあとの、いまの一水会の精鋭たちのことである。
いまこそ、会員は英知を集め、輝ける歴史を持つ一水会の伝統の”勇気と決断”を、団体展をふくむこれからの会の運営につぎつぎ断行されるよう、私は期待してやまないのである。(第五十五回一水会展図録より転載)